楽曲アーティスト特設記事Artist Column

浅野 祥
(Sho Asano)

三味線奏者・歌手・作曲家
みやぎ絆大使・宮城県出身

公式サイト(http://sho-asano.com/
オフィシャルブログ(https://ameblo.jp/asano-sho/
Twitter(https://twitter.com/ASANOSHO

あの悲惨な光景は、あの時あの瞬間、
たしかに我々が生きるこの世界の現実として存在していた。

あの日は神奈川県にいた。経験したことのない大きな揺れがおさまり、テレビをつけたら信じられない光景が中継されていた。確かNHKだったと思う。およそ1,000人の犠牲者が出た宮城県名取市の町が、得体の知れない黒い塊りにのまれていく。無慈悲な塊りは躊躇なく町へ流れ込む。きっと懸命に助けを求め叫んでいた人も、覚悟を決めた人も、まさかの出来事に目の前で何が起きているのか分からなかった人も...今となっては、あの時あの画面の中には多くの物語が存在したのだとわかるが、それも随分時が経ってからだった。

あの日以来、宮城県出身のぼくの音楽活動は大きく変わった。それまでは応援してくれる方、周りで支えてくれるスタッフの方たちのお陰で、毎年のようにアルバムを出し、大きなコンサートツアーをやり、海外公演も多く、ありがたいことに充実の日々を送っていた。でも、それが一変した。
あれは夢だったのかと思うほどに。
震災直後に普段の何倍もの時間がかかりながらも地元へ帰り目にした各地の光景、避難所の光景。それは到底現実とは思えなかった。あの時は"希望の光"とやらがどこか異次元に飲み込まれこの世には存在していないのかと思うほどに絶望が広がっていた。流された娘を探すご両親、家も車も思い出の品も何もかもが流されたが何かひとつでも...と探し回る人たち。
いくら考えても、どう頑張って口を動かそうとしても「三味線を聴いてください」なんて言えるわけがなかった。

少し日が経ち、避難所から仮設住宅へと整備がされた頃。ようやく三味線を持って皆さんと唄をうたうことができた。"その時間だけ"なのはぼくも分かっていたけど、皆さん笑ってた。大声で唄って踊ってさわいではしゃいで、笑った。お茶をのみながらいろんな話をしてくれて、あの日自分に何が起きたか、を教えてくれた。想像以上だった。

それから5,6年、仮設住宅へ伺うことを続けた。80カ所くらいだろうか、皆さんが笑顔で受け入れてくれて本当にありがたかった。

仮設住宅にて皆さんと歌う

気づき。

ぼくは今まで自分の演奏を誰かのために、心から誰かを思って弾いたことがあっただろうか。思えばいつも自分のエゴ。頭の中にはいつも"優勝したい""誰よりも上手くなりたい"それだけだった気がした。
それを教えてくれたのは被災された地元の皆さんだった。自分から無理に押しかけておいて...結局大変な思いをされている地元の皆さんがぼくを音楽家として、ひとつ上の階段へ押し上げてくれた。
この10年、震災を通して本当に色々な方に出会い、色んなドラマを目撃してきた。巡り合った有難いご縁に感謝するとともに、皆さんへの恩返しはやっぱり音楽でするしかないと思う。

全壊扱いとなった実家の床柱で2挺の三味線を作った。ぼくと三味線を出会わせてくれた大好きだった大工のじいちゃんが建てた家だったから、それが三味線になり、いつも一緒に暮らせているのが幸せだ。この楽器を制作するにあたっても、本当に多くの方のお力添えがなければ実現できなかったのだから、こういう時に助けてくれた人へは生涯恩返しをし続けたいと思う。
残念なことに、こういう時こそ一緒に同じ方向を向いてくれると信じていた身近な人たちに、"偽善"、"震災バブルの恩恵を受けやがって"などと驚くことを言われたりもしたが、今となってはそんな言葉さえもぼくを大きく育ててくれたのだから感謝している。
先日、母校・仙台市立芦口小学校6年生の総合の授業へお邪魔した。当然のことなのにハッとしたのが、在校生のほとんど全員が震災を知らないということだ。自分にとってはついこの間のことなのに。

世界はいつも平等に、1日86,400秒の時を刻みながら進む。誰しも平等に与えられた時間である。時間は寿命。1日に100秒間とてつもなく嫌な思いをしたからといって、残りの86,300秒を捨てることはない。自分が思うようにいまを生きよう。

現在は新型肺炎が世界で蔓延している。人類史において、定期的にやってくるウイルスとの闘い。それを世界の先人たちは乗り越え時を繋いできた。日本においても、大地震や大津波は昔から起きてきたし今後も必ず起きる。これからの明るい未来を担う子どもたちへ、この教訓は伝えていかなければならないとぼくは思う。何も神妙な面持ちで深刻な語り口である必要はない。子どもたちには子どもたちの人生があるのだから、できる限り寄り添いながら。人間には言葉も音楽も、伝える手段が沢山ある。情報グローバルな現代だからこそできる伝達もあると思う。

震災のガレキから再生楽器に

実家の床柱から誕生した三味線

しらいみちよさんが作られたこの唄を聴いて、あの日に心を寄せよう。

いまだ行方不明の方も大勢いる。犠牲になられた方、二次、三次被害で犠牲になった方も多くいる。心から哀悼の意を表するとともに、繋いでもらった未来をより明るくできるよう、いま自分にできることは何なのか、常に向き合いながら生きている。防災、備え、いつ失われてもおかしくない大切な家族や友人とのコミュニケーション。いまある奇跡に感謝をしよう。

「無難な人生よりも、有難な人生。有難う。」
私が大切にしている言葉である。

浅野 祥

アーティストプロフィールArtist Profile

浅野 祥
(Sho Asano)

三味線奏者・歌手・作曲家
みやぎ絆大使・宮城県出身

世界的に活躍する若き実力派・津軽三味線奏者。
その活動は、政府公式プログラム「beyond2020」の承認事業に正式決定。

祖父の影響により3歳で和太鼓、5歳で津軽三味線を始める。その後、三絃小田島流・二代目小田島徳旺氏に師事。7歳の時、青森県弘前市で開催される津軽三味線全国大会に最年少出場し、翌年から各級の最年少優勝記録を次々と塗り替える。
2004年津軽三味線全国大会(旧大会名:津軽三味線全国大会)において、最高峰のA級で当時14歳の最年少優勝。その後、2006年まで連続優勝し3連覇を達成。同大会の規定により殿堂入りを果たす。

2007年17歳でビクターエンターテインメントより「祥風」でメジャーデビュー。
以降、コンセルトヘボウ(オランダ)、ケネディ・センター(アメリカ)でのコンサートをはじめ、アメリカ、ヨーロッパ、カナダ、アジア各国でもコンサートツアーを行うなど、海外に向けても積極的に発信する。
民謡、Classic、Rock、Jazz、Pops、フラメンコなどジャンルにとらわれない演奏スタイルにより、石川さゆり、山下洋輔、宮沢和史、早乙女太一など、様々なアーティストと共演する。
”日本遺産×芸能”をテーマに掲げる文化庁主催「ニッポンたからものプロジェクト」への参加など、日本文化の掘り起しや普及にも積極的に取り組む。
近年では、エガちゃんねるへの出演や、「灯火のまにまに(TVアニメ「かくりよの宿飯」OPテーマ)」での演奏なども担当。

●浅野祥と震災
2011年、震災の年の夏頃から製作を始めた”再生楽器”。これは宮城県出身の音楽仲間と共に行った「ゼロ・ワン・プロジェクト」と言い、震災によってできたガレキから楽器を作り、その音色と共に日本全国、世界各国の皆さんへ感謝を伝えていこうという活動。浅野祥が初めて師事したのは大工であった祖父。育った家は祖父が自ら建てた家でしたが震災によって全壊扱いとなり取り壊しに。実家の床柱は、津軽三味線でも使えそうな木材だったため父の提案から三味線を作ることになり、この三味線で現在も日本各地、世界各地で演奏を行っている。